古来、四国の地は、奈良や京都の都から遠く離れた僻地であり、修行者たちが集う特別な場所でした。
弘法大師・空海も四国の各地で修行し、八十八ヶ所の寺院を整備し、霊場を開創したと伝えられています。
それら、弘法大師ゆかりの八十八ヶ所の霊場寺院を巡拝するのが「四国遍路(しこくへんろ)」です。

当初の遍路は、僧侶などがおこなう特別な修行でしたが、弘法大師に対する人々の信仰が盛んになるとともに、
日本全国から多くの人々が巡礼のために四国を訪れるようになり、誰もが一生に一度は訪れたいと願う
霊場として発展してきました。

四国の人々は、遍路をおこなう人を「お遍路さん」と呼んで大切にします。
そして、お遍路さんには弘法大師がいつも付き添ってサポートし、願いを叶えてくれると信じられています。
「同行二人(どうぎょうににん)」といわれる信仰です。

弘法大師・空海(こうぼうだいし・くうかい)は、宝亀5(774)年に讃岐の多度郡に誕生しました。幼名は真魚(まお)といいます。
父は、有力な豪族であった佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)で、母は、学者の家系であった阿刀(あと)氏の出身とされています。

神童と呼ばれた大師は、18歳で奈良の都にあった大学に入学して官僚を目指しますが、疑問を感じて仏道を志すようになり、
奈良の寺院で仏典を研究しながら、四国や紀伊の山々で厳しい修行を重ねました。

延暦23(804)年、遣唐使に加わって中国に渡り、師の恵果和尚(けいかかしょう)と奇跡的な出会いを果たし、
インドから伝わった当時最新の仏教であった真言密教をわずかに2年で極め、帰国します。

帰国後の大師は、歴代天皇の帰依を受け、官寺であった京都の東寺(とうじ)の住職となり、高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を
開基するなど、三面六臂の活躍を見せました。
多くの著作を残しただけでなく、四国最大の溜池である満濃池(まんのういけ)の修築や、日本初の庶民のための学校である
綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)の創設など、社会事業にも貢献しました。
大師はまた、書道の達人としても知られています。

承和2(835)年、高野山において62歳で入定(にゅうじょう)し、延喜21(921)年、醍醐天皇より弘法大師という称号が
贈られました。
入定とは、深い瞑想に入ることで、大師はいまだ生きたまま座禅を続けており、人々を救済し続けていると信じられています。
以来、親しみを込めて「お大師さま」と呼ばれ、多くの人々から信仰を集めています。

弘法大師を参拝するときには、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」の御宝号(ごほうごう)をお唱えします。

四国の霊場寺院では、お参りに際して御朱印(ごしゅいん)をいただく慣習があります。
御朱印は、写経を奉納したこと、あるいはお経を唱えたことの証明ですから、必ず本堂と大師堂を参拝した後にいただいてください。

納経の受付時間
 午前8時から午後5時まで(年中無休)
納経料
 掛け軸 700円   納経帳 500円(重ね印 300円)   白衣 300円

※お遍路の作法などについては、四国八十八ヶ所霊場会のホームページをご参照ください。 → 霊場会
 周辺の宿泊施設については、こちらをクリックしてください。 → 周辺情報


   

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